これが私の書きたいこと! 失いながら生きる(6)

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失いながら生きる(6)

 今もなお自分を苦しめる、この忌々しい病のきっかけは、40歳の時のパニック発作の連続だった。

 世間で「私もうパニクっちゃって・・・」などというフレーズを、特にテレビなどで耳にすると怒りを通り越して強い憤りをさえ感じる。
 一般にパニックになるという状態は、一瞬間、頭が混乱し、次にどういう行動をとるべきかという判断能力を一時的に失いうろたえるとういうことなのだろう。しかし、医学上で言うところの「パニック発作」というのはそんなのもでは勿論ない。何気なく複数の人達と談笑している最中に、これといって引き金になるような言動や仕打ちを受けてもいないにも拘らず、突然意識が薄れ、激しい動悸が始まると同時に全身から脂汗が染み出してきて、今にも死んでしまうのではないか、今にも気が狂ってしまうのではないか、今にも卒倒してしまうのではないかという激烈な恐怖感に襲われ、その場に居ることが非常に困難になって逃げ出してしまう―――――これが所謂パニック発作である。

 自分は学生時代にこれを数回経験して、何か取りか返しのつかない病に冒されてしまったと勘違いして、あらゆる病院で、数え切れないほどの検査を受けた。精密検査の必要を告げられると、「これで原因がわかる」と、むしろ喜ぶような具合だった。
 
 当時の日本では、神経症の一つである「パニック発作」という病名は、まだアメリカから輸入されておらず、自分の経験した精神状態の説明をしても医者には実態が掴めないでいるようだった。
 足を棒にして数多の病院の診断を仰いでも、下される診断は「異常ナシ」。そうこうするうちに、自分は本格的にうつ状態に陥っていった。奇跡的回復を夢見て入院した精神病院では症状が悪化しただけであったという絶望的な現実に直面し、途方に暮れていた時に姉が購入してきてくれた「神経症は森田療法で完治する」という1冊の本が立ち直りのきっかけを与えてくれたのだった。
 本の巻末に掲載されている病院を選んで、バイクを走らせた。溺れる者は藁をも掴む・・・何の期待もしていないのに、一瞬でも早いその病院の医者との面会を切望している自分はまるで終身未決囚を宣告された軍人のようだった。
 診察室に座って自分を迎え入れた医者は、精神を患うものにとって最も苦手な面構えをした中年男だった。苦手であるという感触を患者は一瞬にして見破ることができる。

「最後まで患者の話を親身になって聞きとどけてくれるサービス精神の欠如」

 ―――――こういう類の医者は患者にとって救世主たり得ないことを直感でわかるのである。
 そればかりか、時にして、こういう医者は患者にとってストレスにさえなりうる。しかし、来てしまった以上、いくら落胆しているとはいえ、取り敢えずパニック発作から今の精神状態に至るまでの経過を、相手が飽きて集中力を切らさないうちに何とか語り終えなければならない。
 自分は注意しながら早口で熱弁を奮ったつもりであったが、予想通り、向かいに座っている不機嫌で気の短い中年男は窓の外の景色を眺めるともなく、何か書き留めるでもなく、約束した相手に待たされて時間を潰す方法が思いつかなくて困っている人間のような態度でうつむいてしまったまま、私の顔を見る気はとっくに失せてしまったようであった。
 泣き出してしまいたくらい胸いっぱいの後悔を我慢していた私が話し終えるや否や、この中年男は予め用意していたと思われる言葉を手短に伝えてきた。「君は森田で言うところの典型的な森田神経質です。」そして、薬物の治療は無駄であること、月に1回行われている「生活の発見会」に参加するしか手段がないということを告げると、看護師に次の患者を呼び入れるように命令してしまった。
 
 当時の精神病院に入院することが最悪の選択肢であることを経験し、身にしみて知っていた自分には、行くように命じられた会に参加する以外には、自分を泥沼から救い出す手段を今後も自力では見つけられないことを無意識に悟っていたのだと思う。早速、次の集まりに参加する決心をしていた。当時の自分は何も手につかない程の離人感覚にとことん困り果てていた。

 森田療法による神経症の治療は、徹底的に感情の法則を学び、自己の性格傾向を客観的に評価し、生きがいを改めて確認し、その目的にかなった生活を送ることを実践するというものだった。

 ある男性は会社員であったが、書類を書く時に視界の中に鼻の先が入っていることにたまたま気づいた。彼は如何にも真面目で曲がったことを真剣に嫌悪するような雰囲気を醸し出していた。
 誰だって下を向けば鼻の先は否が応でも目に入ってくる。気分がいい時には、そんなことはすぐに忘れてしまうものの一つだが、こういう神経質な人が、多少気分が冴えないときに、今までには気にしたことの無かったものに気づいたりすると、そのことが異常に気になるようになり心が囚われてしまうことがあるという。
 
 視界に鼻の先が入るのは当たり前なのだけれども、神経質な人は何かしようとすると、その鼻のことばかりに神経が集中し、他の大事なことが考えられないようになるのである。
 大抵、神経質と呼ばれる人は完全主義になりがちである。常に100パーセントでいなければ落ち着かないのである。人一倍仕事のできる男になりたいのに、それを鼻が邪魔をするようになるのである。しかし、よく考えると、鼻を邪魔者にしている本人が鼻を邪魔者に仕立て上げているのであるが、症状に固執しているので、本人はそのカラクリに気がつかない。
 会社で仕事をしていても、もう常に頭の中は「鼻が見えるから仕事に集中ができない」という悪循環に完全に陥ってしまう。できる男になりたいのに、それを鼻が邪魔をする。こういう感情的パターンは神経質ではない人には恐らく想像できないのではないかと思う。このままでは会社で十分に力が発揮できないという思い込みも強いので、恐怖心まで沸いてくるようになる。そしてそれが強烈になっていくと不安神経症のような状態になり、いよいよ仕事の能率が下がり始める。
 それとて、他人から見れば取るに足りないレベルなのだけれど、本人は鼻が自分の社会的な生活を全て駄目にしてしまうのではないかと深刻に悩み始める。酷くなれば、いつ上司が怒り出すのかが心配になって、夜も眠れなくなる。本人はとことん悩みぬいて、何とか鼻のことを考えないように仕事をしようと努力をするのだけれども、本人が邪魔者扱いして排除しようとすればするほど、感情は空回りして、意識が鼻だけに集中してしまうのである。
 姿勢を工夫してみたり、めがねの角度を変えたり悪戦苦闘するけれども、彼の生活全般を鼻が左右させるのを知らぬ間に自身が許してしまうような形に追い込んでいく。
 傍目には何の問題も無い会社員であるが、本人は日常の大半を鼻との格闘に費やしてしまうのである。そうなったら、鼻が見える限り、自力で以前の自分に戻るのは不可能になってくる。
 

 このようなケースを聞けば殆どの人は馬鹿馬鹿しいと思うだろう。しかし、森田で言うところの神経質者は人一倍負けず嫌いで、常に100%の能力を発揮して仕事をしなければならないと幼い頃から潜在意識に刷り込みをされているので、仕事に集中できない何かを発見したら、何が何でも排除しなければならないという錯覚に囚われてしまうのである。
 きっかけはなんであれ、森田の「生活の発見会」に参加している人は似たような思考パターンをもっていることに気づかなければならない。常に100%とか、100%が自分の責任であるとか、ありえないことを、「ねばならない」として執着してしまうのである。
 そして最も大切なことは自分が生きていくうえでの目的は何か?ということをはっきりと自覚することであると森田は言う。誰だって当然、明るく、元気で、能力を発揮できて、正しく評価してもらって、満足のいく人生を望んでいるのに「鼻の先が見えて集中できない」と嘆いて、にっちもさっちもいかなくなってしまっている状態が典型的な森田神経質である。そこで森田療法の決めのフレーズが登場するのである。

 「あるがままでよい」と。
 
 しかし自分は、このあるがままという森田の言葉は誤解されているように思う。不安だから、会社に行くのが怖いから、電車に乗るのが怖いから、会社を休んでゴロゴロしていれば良い――――――という風に捕らえている人が殆どだと思う。森田療法=「あるがまま」という図式は間違いではないが、解釈が全く間違っているようにみえる。
 森田は「症状はあるのだから、それは素直に受け入れながら、あるがままにしておいて、自分の人生の本当の目的のためには今は何を考え、何をなすべきなのかということを真剣に考えて、辛くても目的にかなうような行動をとりなさい」「行動することによってしか感情は変えられない」と言っているのである。
 そして森田神経質の範疇に入る人は、落ち込んでいるが死ぬことに対して人一倍恐怖感を持っている。その分、生への執着も人一倍強い。要するに何事も自分の気分本意で行動する人間なのである。しかし、それでは苦しみから逃れることはできないと森田は言う。

 子供がお使いに行く時に、人の目を気にせずに道を歩いたかどうかやら、お店の人は自分をどう思っただろうかとか考えない。親に言われた品物を間違えないで買ってくることが大事なのであって、それ以外は取るに足りないことであり、先ずそのようなことは意識の上にはのぼらない。
 大人になった人間が子供でも分かっているようなことを分からないでいるのである。彼らは目的に対する執着が強すぎるので、心の中に不安があると無意識のうちに症状に逃げてしまっているのだと森田は強調する。100%集中して仕事をこなしたいという強い願望があるのはいいが、鼻の先が視界にあると気づいて嫌な気分になった時、彼らは言い訳のように症状に固執して、症状に逃げ込む。
 これを森田は「とらわれ」と呼んでいた。自ら囚われて症状に固執している上に、生き方が気分本位、自分本位なので本来の目的にかなうような行動ができない。感情は起こっても、それを放置すれば放物線を描くように、やがて消えてなくなるという法則があるのだから、目的本位で何事にも対処するように努めていくうちに、症状としての感情は必ず消えてなくなるのである。森田が扱う神経質者は、公共の交通機関に乗れない不安神経症者や対人恐怖症に悩む者も多い。彼らが立ち直るためには「恐怖突入」をしなければならない。これを突破できれば、ひたすら目的本位の行動で、薄皮がむけるように少しずつではあるけれども、症状は消えてゆく。

 だから森田療法の対象者は「自分は病気ではなくて、感情の法則を利用できないで執着を募らせた結果が症状として現れているだけ」「薬を飲むと、どうしても己のことを病人扱いにしてしまい、治療のさまたげになるだけ」―――――なので、断薬させるのである。

 鼻の先が視界に入っているのは気になるし、それをやめようと努力すれば泥沼に入って症状を悪化させるだけなので、鼻の先は見えているけれども、自分のできる範囲で一生懸命仕事をするように指導されて、患者だった神経質者は、今現在向かっている書類の内容にできるだけ神経を集中させるという行動をすることによって、非常に孤独で厳しい訓練ではあるが、徐々に元の自分を取り返すのである。

 自分の場合は常に離人感覚に悩み続けていた。何をしていても本当の自分は傍観者で会話自体を楽しんだり、コンサートに行っては連帯感のような陶酔感を味わうことができなくて、生きることが非常に辛かった。しかし、自分はこの森田療法でいうところの神経質の典型だといわれ、必ず森田で治ると「生活の発見回」の顧問の医者から言われ、孤独のうちに、理論を厳しく実践しつづけた結果、1年半で就職できるまで回復した。まさに、心が流れ出した瞬間を自分は今でもありありと思い出すことができる。
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